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Okay, bad joke.

詩のドラフト倉庫

黒い雨傘

お前の傘はボロだわねえ
母は今日だけで三度目の台詞を口にする
色だって褪せているし、骨だって曲がって
知ってるよ、と俺は流す
買い直した方がよかないの?
いいんだ、盗られることもあるんだし
言いながら苦笑する
この傘への思い入れは別にない
俺もいっそなくさないかとは思うが
意外と置き忘れもしないものだし
泥棒も選り好みはするものらしい
 
母はまだ言い募る
お前、傘を買うおあしも自由でないの?
母さん、買っといてやろうか?
いいったら
年寄りはモノを大事にって言うもんだろ
雨が降るたびに安っぽいビニール傘買って
そのまま電車に置き忘れるやつもいるんだ
ひとの傘なんて誰も見ちゃいないし
俺は当座がしのげればそれでいいんだよ
 
母はくしゅんと黙ってしまって
俺は気の進まない父の見舞いに出かける
 
父とはさして話すこともなく
着替えを渡し洗濯物を受け取ったら
うむ、とも、ぐう、ともつかない応答を
聞くともなく聞いて帰るだけだ
 
ある時母が見舞いに出る俺を呼び止め
手渡して来た樫の柄の黒い雨傘
なんだよ、いらないって言ってんだろ
違う違う、お父さんに
庭に出る時にでもお前がさしてやってよ
雨の日にわざわざ出るこたあ…
あのひと、雨が好きなんだもの
そんなの初耳だけど
言わなかったかねえ?
 
大ぶりな傘は持ち重りがして癪に障る
折悪しく、ある意味ではちょうど良く
鉄くず色の低い空からぽつりぽつり
傘は開かず病院の自動ドアへ
 
父は点眼鏡をサイドボードに置く
調子はどう?
変わりないな、この本は下らん
何か飲む?
いらん
…雨だけど、ぐるっと散歩してみる?
庶務で車椅子借りられるってさ
途端に父の顔がこっちを向いて頷く
え…行く?
お前は構わんのか、時間
俺は別にいいけど
 
職員の人が車椅子を押してくれる横で
パリパリと新品の音を立てて傘を開く
なかなか難儀だ 付き従う俺はそぼ濡れる
父は大して見えない目を凝らし
どうにか聴こえる耳を澄ます
 
銀杏の木の下を通った時 風が吹いて
バババラバラっと大きな滴の音
俺は軽く驚き 父に詫びた
父は怪訝そうな顔をぐりっとこちらに向け
何が済まない?
お前は雨の音なんぞが神経に障るのか
近頃のやつはうらなりでかなわねえ
そう言って前を向いて低く笑った
 
それからしばらくして
俺は父と母を立て続けに見送り
形見にその黒い雨傘を貰った
冴えない俺のいでたちに
ちっとも似合っていないけれど
ざわめきをかき消す雨音で
ふと自分に戻れる夜もある